秋月蓮城の伝統に学ぶスピリチュアル

伝統的な宗教の教えや修行法はスピリチュアリティの宝庫です。初心者にも優しく分かりやすく解説いたします。

スピリチュアルとはなにか?

 スピリチュアルという言葉はよく耳にします。テレビ番組や雑誌の記事、SNSやブログといったネットなど色々なメディアでスピリチュアルをテーマに語られています。ですが、スピリチュアルとはいったいなんなのでしょう?

 スピリチュアルというと「怪しい」「うさんくさい」などの声も聞こえてきそうです。それは一面では正しいのかもしれません。見えない物事はなかなか確かめることができないので、それが正しいのかどうか疑問に思われることがあるのは避けられないと思います。

 それはスピリチュアルをビジネスにしてお金を巻き上げようという詐欺師まがいな人がいるのが疑われてしまう理由の一つだと思います。また、人集めや金集めに一生懸命なセミナー主催者や新興宗教があることも理由の一つでしょう。

 職業選択の自由や、信仰の自由が認められている社会で、スピリチュアルを職業やビジネスにしたり、宗教法人として団体にするのは悪いことではありません。しかし、それも程度の問題で、あまりにもカルト的で悪徳な人や団体がいるのでスピリチュアルという言葉を使うこと自体が疑われてしまうのだと思います。

 また、私たちは科学技術の多大な恩恵をうけています。科学は正しいし、役に立つと思っています。なぜなら科学は合理的で、実際に生活の中で便利なことが多いのです。病気になった時に治癒を神様に祈ることよりも、病院に行った方が手っ取り早いのですから。

 そういう合理的な考え方をすれば、なかなか確かめられないあやふやな、つまり科学で証明しにくい物事であるスピリチュアルは、疑われたり単なる妄想と一蹴されてしまうのは無理もありません。物質のように目に見えて、手で触れるものではないのですから。

 現代の日本人で「自分は無宗教で無信仰。不合理なものは信じない。スピリチュアルな人間ではない」という人は多いでしょう。しかし、例えそういう人でもスピリチュアリティというのは無関係ではないのです。

 なぜなら、スピリチュアリティとはもともと最も個人的な、最もプライベートな事柄なのです。

 例えば、キリスト教禁止令が出された時代の日本のことです。当時、社会からいくら厳しく禁止されて厳しく罰せられても、この異国の宗教を信じる人はいたのです。踏み絵を強いられても踏まずに殉教したキリスト教徒は命を懸けて信じたのです。それは、個人的な信仰の問題に他なりませんでした。

 一方で、踏み絵を踏むことに心を痛めながら、それでも踏むしかなかった人もいたはずです。誰もが信仰に命を懸けれるわけではありませんから。さぞや踏み絵を踏んだ足は痛く、心は痛かったことでしょう。しかし、これもまた個人的な問題であったのです。

 命を懸けて貫き、大切にした信仰の痛みと、命を繋げるためにやむなく捨てるしかなかった信仰の痛みというのは、どちらも個人的に選択した結果なのです。個人の問題なのです。これらは極端ではありますがスピリチュアリティの個人性を示した例であります。

 一般的な伝統社会ではスピリチュアリティというのは、伝統という形で共有されています。単純に個人的なものだけではなく社会の秩序のために強いられる側面もあるのです。

 もちろん周りの人たちが信じていることを自分も信じるのは自然なことかもしれません。しかし、社会に属する全ての人が信じているわけではなくて、疑っている人もいれば、どうしても信じられない人もいたわけです。それは根本的にはやはり個人的なものだったはずです。

 時は変わり、近代は民主主義、自由主義個人主義の時代になりました。一つのスピリチュアリティを社会で共有することが当たり前ではない時代になりました。伝統を根拠に、当たり前に大切だと信じることをもう社会から強いられるわけではないのです。そして、信じない人、信じれない人が続々と出てきたわけです。

 これはスピリチュアリティの社会からの強制力が弱まり、その個人性というものが浮き彫りになってしまったからです。現代の日本は法律や常識といった市民社会のルールさえ守れば罰されることはありません。社会の秩序のために共有すべきものは、神のような伝統的なスピリチュアリティから、民主主義の精神や人権意識といった市民の価値観に変わったのです。

 現代はニーチェが言った「神は死んだ。私たちが殺したんだ」という、もはや共有すべき不変で普遍なスピリチュアティというのはなく、全てが個人的な問題になってしまうという時代なのです。

 自由になり、ある意味でスピリチュアリティの問題は本来的な形になったといえます。スピリチュアリティが個人的な問題であるということの大きな理由は老い、病、死です。これらは誰もが避けられません。しかし、これらの苦しみ悲しみは個人が一人で耐えなくてはいけません。

 たとえ援助してくれる人、慰めてくれる人がいたとしてもこれらの経験はどうしようもなく個人に固有な個人的なものです。誰もが全く同じ老いや、病、死を経験するわけではなく、あくまで自分で自分自身の老い、病、死の苦悩に立ち向かわなくてはいけません。

 老い、病、死のように大きな問題でなく、極々と些細な苦しみ悲しみさえ、あくまで自分の経験でしかありません。その気持ちを誰かと共有できるとは限りません。このように自分の人生は自分しか経験できないのです。

 人間は本来的に孤独なのです。孤独だからこそ、かつては同じスピリチュアリティを共有し、共同体を作り、助け合おうとしていたのです。しかし、もう共有すべきスピリチュアリティというのはありません。私たちは孤独というものに個人で立ち向かわなくてはいけないのです。

 だから、スピリチュアリティとは、個人が分離され孤立しているという孤独な状態から解放してくれるものといえます。決して孤独をごまかすためのものではありません。ここがポイントです。

 スピリチュアリティは個人を解放するものであります。しかし、特定の考え方や、人や、団体に依存する時には孤独をまぎらわしごまかすものになってしまいます。ここにスピリチュアリティの罠があります。

 スピリチュアリティとはあくまで個人を解放するもの、解放することなのです。孤独に悩み苦しむ全ての人にとって関りのあることです。